〔特集〕1964年東京五輪日本代表実用車「片倉シルク号」と長野県の意外な関係。

《速報》「JCL第6戦山口ながとクリテリウム」2017年シクロクロス全日本王者の小坂光(宇都宮ブリッツェン‐佐久長聖高出)が国内ロードレース主要大会で初優勝!(9月11日) 〔結果〕トライアル世界一を決める「世界選手権トライアル」で土屋凌我(岩村田高出)が自身最高となる8位入賞の快挙!(9月5日) 〔結果〕弥彦競輪A級チャレンジ戦でルーキーの堀江省吾(屋代高‐信大出)が三連勝を果たしA級チャレンジ完全優勝を果たした。(8月31日) 〔結果〕2021年のMTB世界一を決める「世界選手権MTB」男子U-23クロスカントリーで北林力(白馬高出)が71位、女子U-23クロスカントリーで小林あか里(信州大)が40位完走を果たした(8月28日) 〔結果〕若手ロードレーサーの登竜門「Tour de L'Avenir」U-23日本代表として出場した小出樹(松本工高出)は総合73位で日本人唯一の完走を果たした(8月22日)

1964年東京五輪日本代表実用車「片倉シルク号」と長野県の意外な関係【前編】

 

 今回は特集として、今までやってこなかった

「自転車機材の紹介」を行いたいと思います。

 

さて今回、当サイトが初めて特集する自転車機材は

1964年に東京オリンピック自転車競技で

日本代表自転車競技チームが実用した「片倉シルク号」です。

 

片倉… シルク…

 

長野県の多くの方、とりわけに諏訪・岡谷地域の方の

殆どがこれでピンと来たか?と思いますが、

あの紡績の片倉財閥(片倉工業)が

この自転車の制作に大きく関わっています。

 

今日はそんな「片倉シルク号」と長野県の意外な関係についてです。

いま、何かと世間を騒がせている「TOKYO 2020」ですが

およそ半世紀前に東京オリンピックを駆け抜けた自転車を見て頂き

過ぎ去りし昭和時代の息吹と、東京オリンピックの風を

感じてもらえればと思います。

 

 

 

特別寄稿「1964年オリンピック認定ロードレーサー 片倉シルク号」

 

クリックすると大きくなります。

 

 今回「片倉シルク号」と自分が出会うきっかけになった

数奇な物語は【編集後記】に書きますが、

今回この自転車と出会ったことを関係者に話したところ

非常に数多くの方々にエピソードを寄せて頂きました。

それをまとめて、まず最初に、日本自転車界の草分け的編集者でもある松本敦氏が

当時の時代背景を特別寄稿をして下さいましたので、是非ご覧ください。

 

 

 

特別寄稿「1964年オリンピック認定ロードレーサー 片倉シルク号」

文:松本敦(バックス事務所)

 

 ちょっと前置きが長いけれど、まず戦後の自転車産業の軌跡を読んでほしい。

日本は第二次世界大戦でアメリカ軍から空襲を受けて都市部や重要な工業施設は破壊された。1945年8月15日に敗戦。戦争中、すべての自転車産業は軍需企業に吸収されたが、戦後すぐに連合軍から平和産業への転換を求められた。戦前に自転車製造をしていた工業型メーカーの他に、技術や資材がある企業が新たに転換メーカーとして自転車製造に乗り出したのだ。

当初は運搬手段としての実用自転車が売れた。40年代は200社を越える自転車企業が50年代に入るとドッジ不況、朝鮮特需、オートバイ事業失敗などで相次いで撤退や倒産。1954年ごろに第1次サイクリングブームが起こり、映画「青い山脈」で青春スターになった女優が先頭になり若い女性200人が列を作っての遠乗り会(戦前の呼称)で新聞誌面を賑わした。小坂一也の唄う「青春サイクリング」も大ヒット。ブームは2年ほどで下火になったが、通産省は1964東京オリンピックに向けて道路や施設のインフラ整備とともに自転車産業育成の研究予算を組んで鳥山新一をヨーロッパに派遣した。鳥山は医師であり、サイクリング愛好家。

戦前もサイクリング愛好者はいたが人口は少なくてそのスタイルは英国式だったが、鳥山は“ランドナー”が象徴するフランス式のスタイルを持ち帰った。レース機材は当時の世界選手権で常勝のイタリアのチネリやマジーなどだ。1960年代、東京や大阪にスポーツ車が得意なスポーツ車専門店が登場した。

鳥山の持ち帰ったパーツやフレームは徹底的に分解・破壊をしてデータを取り、材料や工法が解析された。その研究成果でスポーツ自転車の国産化は進み、オリンピックで日本人選手が使うために3つのメーカーが白地に赤の日本チーム用

ロードレースとトラックレーサーを供給。実は、オリンピック直前まではチネリが採用されるはずだったがスケルトンが日本人向きでないと判断され、片倉工業と日米富士自転車と土屋製作所などに試作車が依頼された。試乗を重ねるうちに日米富士が破損、結局は片倉がオリンピック使用車に認定された。

ちなみに、日本に科学的トレーニングを伝えたのはオリンピックのためにイタリアからコーチとして招聘されたクラウディオ・グスタ氏。日本選手は根性だけでなく食事や休養もトレーニングのうちであることをコスタコーチから学んだ。

片倉はメーカーとしてスタートが遅い。戦前に日本の主力輸出産業であった絹糸に代る有望事業と見込んだ片倉財閥が軍需からの転換メーカーとして第一次サイクリングブームが始まるころに手掛けた。その分、鳥山の研究データも活用できたはずだ。クロームモリブデン鋼ラグレス式の低温溶接が得意で腕っこき職人が在籍していた。ブランド名の片倉シルク号、シルクは絹糸に因んだ名称だ。

1964年のオリンピック向けに作られたロードレーサーは現在、大阪・大仙公園の自転車博物館(シマノ・サイクル開発センター)、東京・目黒の自転車文化センター、東京・八王子市上野町の郷土資料館に保存されている。

 

<参照資料>

「運動中は水を飲むな」の体育から、科学的スポーツの夜明け
(東京オリンピックを前に行なわれたグスタフ・コスタ氏の指導)

 

 

 

自転車関係者にはお馴染み、日本自転車メディアの草分け的存在である
松本敦氏(バックス事務所/東京都自転車競技連盟副普及委員長)
美鈴湖自転車学校設立にも多大な尽力を頂いた。

 

今回このコラムは、松本敦氏が当サイトの為に書き上げて下さいました。非常に専門性も高く、学術的にも貴重な物だと思います。この文章を基に、今回は改めて「片倉工業」・「スポーツ/オリンピック」・「長野県自転車界」の意外な繋がりを綴って行きたいと思います。

 

 

 

片倉工業と自転車

 

 我々、多くの信州人が知る「片倉工業」と言えば

先ずは製糸・紡績のイメージですが、戦時中には

軍用機の部品製造を行う「航空部門」を設立。

戦後は「オートバイ製造」を開始。さらには昭和30年に

片倉工業から分離独立して「片倉自転車工業」(工場:東京都)が設立され

国内自転車製造業者として、昭和を代表するメーカーとなった。

その技術は市販の乗用車両にとどまらず、競技車両では

東京オリンピック日本代表チームが使用するなど

メルボルン・ローマ・東京・メキシコと4大会連続で

オリンピックに採用された。

 

前筆のとおり、片倉工業の自転車には

片倉の原点となった絹に由来する

「シルク」をブランド名として採用し、国内自転車産業の一時代を築く。

昭和62年には㈱片倉シルクへと名前を変え。その後、

時代の流れと共に片倉の名前は一度その姿を消すが、

そのスピリットは現在、当時の片倉で溶接トーチを握っていた

荒井正氏(GIANT JAPAN 設立にも参加)が設立した

絹自転車製作所」へと受け繋がれている。

 

片倉シルクオリンピック号からテクノロジーを受け継ぎ市販された
「Silk-R2ロードレーサー」
〔写真提供:松本敦氏〕
※クリックすると大きくなります。

 

 

 

片倉工業とスポーツ

 

《台湾遠征と甲子園準優勝》

 旧片倉財閥といえば、現在もその発祥の地である諏訪湖周辺には

千人風呂の「片倉館」、つつじの名所「鶴峯公園」など様々な施設が残され

地域住民や観光客に親しまれていますが、

文化・福祉に関する支援の他、地域のスポーツ分野にも

多大な支援を行いました。

 

特に有名なものが…

 

地元の諏訪蚕糸学校(現:岡谷工業高校)の野球部への支援で

昭和4年(1929年)の年末には、高校野球のチームとしては

非常に珍しい年越しでの冬季台湾遠征を実施。台湾で大ヒットとなった

映画「KANO 1931海の向こうの甲子園」のモチーフとなった

嘉義農林学校(現:国立嘉義大学)と対戦し勝利を収めた記録と

その試合で使われたバットとボール他書類資料が近年発見され

現在は甲子園博物館に常設展示されています。

 

台湾から帰国した諏訪蚕糸は、同年の夏に

2度目の甲子園挑戦で悲願の初勝利を果たすと

そのまま決勝戦へ進出し準優勝を果たします。

 

 

諏訪蚕糸学校が台湾遠征を行い嘉義農林学校と試合を行った際のボールとバット
〔甲子園歴史博物館所蔵〕
※クリックすると大きくなります。

 

「生糸」を用いて作られた諏訪蚕糸のユニフォーム(複製)
絹を使ったユニフォームは現代高校野球でも見られない非常に珍しいもの。
〔長野県立博物館所蔵〕
※クリックすると大きくなります。

 

 

《諏訪蚕糸改め岡谷工業高と自転車競技部の活躍》

 戦後、諏訪蚕糸学校が岡谷工業高校になると

野球部に加えて、2000年に春高3連覇を果たす

バレーボール部、県内最多31回の花園出場を果たす

ラグビー部も全国の強豪となります。

 

また、自転車競技部も長野県有数の強豪校となり

平成の中期には、岡谷工業と松本工業の2大ライバル校が

長野県の高校自転車界を牽引。

 

平成18年の国体ロード・平成19年の春のセンバツロードで

柿沢大貴選手が共に準優勝。

平成20年のインターハイ・スプリント、同年の国体スプリントで

等々力久就選手が全国制覇を果たすなど

岡谷工業高校自転車競技部は黄金期を迎えました。

 

戦後になり財閥解体がなされ、学校などに対して

直接的な支援が行われた記録は外部からは伺えないものの

 

1873年(明治6年)には、現在の岡谷市に

現在の片倉工業が誕生、その「片倉」と「シルク」を

冠した自転車が生まれました。

 

 

それからまた月日は流れ

 

 

会社創立から135年後の2008年に岡谷工業高校の

等々力選手がインターハイで優勝したことは非常に興味深く

戦前からスポーツ・文化に多大な支援を行ってきた

「片倉工業」「自転車」「スポーツ(五輪)」の

不思議な繋がりが見えて来ます…

 

現在も、岡谷工業高の黄金期で活躍した

柿沢大貴選手(97期)・等々力久就選手(98期)は

現役競輪選手として今日も各地の競輪場で活躍しています。

 

また2021年、ここ数年部員がいなかった

古豪「岡谷工業高」に待望の1年生小松颯太が入り

暫く止まっていた時間は、再び動き始めました…

 

 

東京五輪で使用された「片岡シルク号」には、現在の日本チャンピョンジャージと同じ
ナショナルカラーがあしらわれており、脈々と続くJAPAN SPRITS を感じさせる。
〔自転車博物館サイクルセンター所蔵〕
※クリックすると大きくなります。

 

2019年全日本選手権ロードJr.個人TTで日本王者となった
山田拓海(飯田風越高/現早稲田大学)が切る日本チャンピョンジャージ。

 

 

 

東京五輪を走った片倉シルク号

 

 

 

 

 

 

 

 

クリックすると大きくなります。

 

 

東京五輪日本代表かく戦いけり

 

 

 実は春先に、この記事を書いた際に

バックス事務所の松本敦氏が、前回の東京オリンピックについて

大宮選手を始めとした日本代表選手を中心に取材を行い

再び1964年の再考が行なわれました。

 

ロードレースで優勝候補だった大宮選手が

レース中に何を考え、どう戦ったのか?

非常に興味深く資料も沢山いただいたのですが

是非、松本氏の特集記事をご覧ください。

 

 

また、市川崑監督が作成した記録映画

東京オリンピック1964にて

前回のオリンピックロードレースの模様が見ることが出来ます。

因みに、この記録映画は、当時非常に賛否があったようですが

個人的には非常に興味深い作品だと思います。

※クリックするとロードレースの模様が見られます。

 

 

(参照元:Youtube/Olympics)

 

 

という訳で、明日からオリンピックで

自転車競技は㈯・㈰の両日

ロードレースで競技がスタートします。

 

 

実はこの記事なんですが…

 

 

春の選抜高校野球に行った際に、

自転車博物館(堺市)に行ったのですが

その際にたまたま、展示物の所に

この1964東京五輪を走った

自転車が飾られており

色々と調べたところ

長野県にもゆかりがあるということで

急いで記事を書いて…

 

今日まで約半年間放置していました。

公開が遅くなってしまい関係者の皆様

大変申し訳ありません。

 

読者の皆さんには、オリンピックが

本当に偉大だったころ、そして

1964年の東京の記憶と

昭和の息吹を感じて頂ければと思います。

 

 

 

関連LINK

自転車博物館サイクルセンター

甲子園歴史館

じてんしゃ自由主義(バックス事務所)

岡谷工業高校同窓会

絹自転車製作所

片倉工業株式会社



 

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